作家であり、高校時代の友人の津島たまきによる私の作品に関するエッセーです。
    この文章は、私が2002年にギャラリー山口で個展をする際に依頼したもので、私はわりと軽い気持ちでお願いした気がします。それでも彼女は私の留学時の卒論を読み直し、作品ファイルを持ち帰り、出来上がってきたのは軽い気持ちで読む人をぶっ飛ばすようなボディーに効きそうな長文でした。これは私や作品について云々と言うより、彼女が私と言うモチーフを媒体にして書き上げた作品といった方が正しいかも。

「光」
津島たまき

 ニューヨークが今よりもいくらか幸せだった頃、わたしたちはマンハッタンの硝子屋の前にいた。課題に使う鏡を、増田は探していた。加工途中の硝子や鏡の間を縫って店の奥へ入った。鏡を正三角形にして欲しいこと、同じ物が四枚必要なこと、サイズはこのくらいで予算はこの程度で、とこちらの意向を伝え、わたしたちは店主の答えを待った。少しして彼が呈示した金額に納得し、増田は財布から言われた額の紙幣を出して机の上においた。
 店主はそれを見て、しばらく沈黙した。そして肩を竦め、こう言った、
「それはね、一枚の値段のつもりだったんだけどね」
今度はわたしたちが沈黙し、肩を竦めた。どうしようもない。
 すると、再び店主が口を開いた。
「いいよ。これで全部作ってあげますよ、今回だけね。」
 都会は彼女に味方した。


 増田佳子は東京・五反田という都会に生まれ育った。わたしたちの付き合いは13年になるが、彼女には都会性があるとわたしは常々感じる。都会に根を持ち、その養分を得て生き生きとする。大都会の真中にあって、天真爛漫に物事に対処する。彼女にとって都会こそが最も自然でいられる場であり、彼女の性質であると、わたしは思う。
 作品について語るということは、画家について語るということにもなる。作品と画家の密接な関係を増田も言っている。画家は自己のexpressionとして絵を描く。これが全てだという思いで絵を描く。それを観る者は、一枚の絵から様々なimpressionを受け取る。


 増田の描く画面からわたしは圧倒的な「光」、プリズマティックな輝きを受け取る。それは「都会の光」ではないかと思う。都会の夜を埋めつくすネオンの光のことではない。それでいて、大きく視界の開けた大自然の青空に溢れる光でもない。それは、ある晴れた日の昼間、都会の小さな空からたくさんの汚染を交わしてちらちらと届いた、陽の光。プリズムの中で美しく壊れた光のような輝きがある。


 1998年の卒論の中で、増田は自分の芸術について探り、"balance, consonance and expression(バランスと調和と表現)"という言葉で締め括った。まずユングの精神分析学の観点から自己を考えてみた。ユングの分けたpersonality(人格)の型のうち、自分は"thinking(思考)"が最も際立ち、"sensation(感覚)"がそれを支え、その対極に"feeling(感情)"とそれを支える"intuition(直感)"がある、と言う。前者が彼女の意識の中央で働き、後者が無意識のなかに沈む。それぞれは相容れぬものではなく、相互に補い合い得るものであるそうだ。彼女の場合、知識として持つ色彩論の合理性(thinking)と、色彩論への彼女なりの信仰という非合理性(sensation)とは互いにうまく補い合う事が出来た。でも、無意識の域にあるfeeling とintuition を引き出すには、どうすればよいのだろう。そこで出会ったのが、ヘレン・フランケンサーラーだった。カラー・フィールド(色と面)であるフランケンサーラーは、色を大切にする増田に自然と繋がったのだろう。フランケンサーラーのアクション・ペインティング、 "dripping(滴り)" や"soak stain(滲み)" は、思い掛けない結果を画面上に生む。これは正に、色彩論に基づいて色を並べるのとは別の、自由な色の使いかた、無意識の領域の表現を増田に与えるきっかけとなった。さらに、この思いがけない色の効果の出現に、彼女は自分の体を呼応させる。床に置いたキャンヴァスの回りを歩き回ってあらゆる方向から色を眺める。直接画面に触れて、色と色とを、色と手を交わらす。こうする事によって、絵と体とが親密性を増す。精神と肉体、この二つを使って絵を描きたい、と彼女は言う。意識的な思考・精神、思い掛けない効果を与える無意識の領域、そしてそれに応える体の動き、これらが調和し、共鳴するような絵を求めて、増田は自己を顕してきた。


 全ての芸術はexpressionである。印象派と雖も、画家が身を賭して描いている作品である以上、ひとつのexpressionであると思う。画家の眼は自然から視覚上のimpressionを受ける。そして画家はそのimpressionを出来るだけそのままの形でキャンヴァスの上にexpressする。そのためには素早くなくてはいけない。Impressionが画家の内面で鎮まる余裕がない。画家の内面の表現(expression)は自然の強烈なimpressionに圧倒されてしまう。抽象表現主義に至って、視覚的impressionに、明らかに内面が加わった。フランケンサーラーは確かにノヴァスコシアの風景を見、impressされた。でも戸外にキャンヴァスを持ち出して、移り行く光のなかでダイレクトにimpressionをexpressしない。《山々と海》は山や海であり、山や海ではない。Impressされたものは彼女の中で一度鎮まり、内面化され、やがてexpressされる。視覚上のimpressionの片鱗が具象的な題名に残されてはいる。マーク・ロスコーにおいて、視覚上のimpressionはもはや沈黙し、彼の内面が前面に押し出される。その絵は、どこまでも、どこまでも深く、測り知れない。精神の昂揚と鎮静とが同時に襲い、研ぎ澄まされていく。視力を弱めた晩年のモネの絵は、視覚上のimpressionをexpress出来なくなった。しかしそれはモネという画家の衰退とはならなかった。図らずもロスコーに直結する内面のexpressionという深さを湛えているとわたしは思う。
 増田は自身の絵を、abstractだと言う。でも題名には具象的なものが多い。その点でもフランケンサーラーに近いのも知れない。ただ、題名にあまり多くを期待してはいけないのも確かだ。実際、増田も絵を描くとき、その向こうにrealistic figures(写実的な形)はない、と書いている。描き終わった後、その絵から逆に喚起されるものを題名にする事もある。《藪の中》という絵は、画面のどこかに藪があるわけではなく、むしろ芥川の小説から来るイメージを絵に感じて題名となった。画面に全てがある。蓄積されてきた画家の人生、経験、いま現在の肉体と精神、この瞬間の感情の全てを濾過して、画家は画面上で勝負する。


 絵を描くということはいつも、未知の世界への旅立ちである。キャンヴァスに初めて色を置く以前からその旅は始まっている。「描こう」というそもそもの駆動力が画家の中で強く働く。「何を描くのか」という方向、「どう描くのか」という方法を、画家は綿密に計画する。またそれを描くに足るだけの技術力を持たなければならない。そして最も重要なことは、画家が「芸術を」を制作しようと意識すること、自分のexpressionが最終的には観る者を何らかの形でimpressする絵、「視られる絵」となることを初めに意識することである。そこがたとえば子供の絵と違うところではないか。子供の絵は純粋で人の胸を打つことがある。それは確かに「芸術的」である可能性はあるが、「芸術」ではない。何故なら、描く前に子供の意識の念頭に「芸術」を制作しようという明らかなマニフェストがないからだ。意識的な自己の鍛錬がない。これが自分の全てだという使命感がない。小林秀雄の言う、「人はただ歌を歌っているので、歌を作っているのではない」ということにあたる。


 そして画家は旅に出た。しかし未知の世界は彼の意思の通りには行かない。思い掛けない筆の進み方もあれば、劇的な色の出会いもある。色々なハプニングが横たわる。「芸術家は、自分の創り出そうとするものについて、どんなに強い意識を持とうと、又、これについて論理的な主張をしようと、その通りに仕事ははこぶものではあるまい」(小林秀雄)。芸術の創作は、この二つの間で葛藤する事だ。時にハプニングは制作を根こそぎ失敗へ落とす要因ともなる。けれども意識だけでは叶わぬほどに大きく飛翔させもする。増田はその飛翔としての葛藤を、"the dynamism of the conscious and the unconscious(意識と無意識の活力(ダイナミズム)" と感じた。それは精神分析学の観点から画家が画家の絵を眺めたときの発見だった。でも、絵画はそこで完結しない。絵は画家の手を離れ、観るものに渡る。


 いま画家が未知の世界に樹立した、この真新しいはずの絵画は、まったく見知らぬものだろうか。新しい冒険、創作の段階で、画家は意識と無意識、合理性と非合理性、精神と肉体の葛藤を繰り返してきた。そしてそれが「創られる絵」から「視られる絵」となったとき、expressionの段階からimpressionの段階へ進む。わたしたち観る者は画家が試みた未知の世界だけを観るのではない。この絵の枠の中に、画家が言うダイナミズム以外の何かをも感じ取る。生まれ、育ち、環境、経験―――画家が未知の世界への冒険を繰り広げる以前のいわば既知の世界、画家が画家となる以前、あるいは画家が画家であるとき以外の、一個人の人間性をも感じるだろう。絵画制作上のダイナミズムとは別の、時にはまったく無関係とも思われる事柄が作品に滲み出る。一枚の絵を通じて観る者は創る者を知る。画家本人による精神分析は、あくまでも作り手側からの絵の域を出なかった。画家のexpressionと観るもののimpressionとが融合して初めて、「視られる絵」、ひとつの芸術としての絵が完成する。


 さて、増田の絵を観るわたしがimpressされた「光」とは何か。画面の光には動きがある。そして多くが曲線を描き、さらには弧となり輪となり、その螺旋状の連なりが観るものを画面の奥のどこかへ誘おうとする。この「導かれる感じ」とは一体何であろうかとわたしは考えた。
 増田はクリスチャンではない。けれども、高校までクリスチャンの学校に通った。毎朝礼拝があり、聖書を読んで賛美歌を歌う。週に一度、聖書についての授業を受ける。幼少年期の自己形成期間に置かれたこの環境の中で、余程の努力をして耳を塞ぎ、目を背け、心を閉ざし、思考を停止させていない限り、キリスト教思想が少女に影響を与えないわけがない。


「…初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。…この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。」(ヨハネによる福音書)


「初めにあったという、あの光をいつも意識せずにはいられない」と増田は言う。キリスト教において、その思想を広めることを「伝道」と言い、「伝導」ではないとよく言われた。導こうと人を強いるのではなく、このような道があるということを人々に知らせるだけだからだ。でも、知らされ共感した側からすると、それはひとつの「導き」であったと振り返るような気がする。増田の絵は、直接的にキリスト教思想に基づくものでは全くないけれど、あの画面の奥へと「導かれる感じ」は、彼女の人生の柔軟な時期に取り込まれた「光」という言葉が、いまだに彼女の体内で響き渡り、内面化され、そして彼女の「光」として現れ出たものに違いない。わたしの前で彼女の絵は光る。「光」こそが彼女の絵の大切なキーだとわたしは思う。


 25の春、増田はユングの視点から自分の絵画制作を考えた。フランケンサーラーの影響を、より客観的に分析する事が出来た。けれども結局、"…. The work of art should stand on its own aesthetically. The process of creating the art might have a therapeutic function, but that is not the purpose of the work(芸術作品はそれ自身で美的に自立しているべきだ。芸術を創作する過程にはセラピー的な機能があるかも知れない。しかし、それは作品の目的ではない)" と論文の終盤で言っている。精神分析はそれまでの自分の制作を論理的に整理するのに役立ったが、芸術は精神分析の内では語りきれない。色に重点を置く絵は、カラー・フィールド、フランケンサーラーの系譜に属するかもしれない。大画面の一部を切り取るという、ポロックの発想を受けている作品もある。でも、あの「光」、「導かれる感じ」は画面に奥行きを持たせている。それは三次元というイリュージョンよりもfield(面)を強調したカラー・フィールドの画家たちを少し脱している。様々な影響と画家自身の葛藤が、画家に新たな未知への旅を絶え間なく与える。画家のexpression進み続ける。それに歩を合わせて、観る者のimpressionが並ぶ。芸術はexpressionとimpressionを繰り返して存在しつづける。いま現在、わたしが増田の絵から受け取るimpressionは「光」だ。「光」にわたしの認識する彼女の全てが見える。画家としての努力と自己分析の末に得たもの、それから都会に転がるluck,そのluckを掴み取る彼女の強さ、そんなものがマンハッタンの硝子窓にたゆたう光のように、彼女の画面で輝いている。


参考文献
Yoshiko Masuda, "Senior thesis for Parsons School of Design, Fine Art", 1998
ミルウォーキー美術館所蔵「20世紀美術の巨匠たち」展カタログ、1994
ロバート・アトキンズ『現代美術のキーワード』美術出版社、1993
Daniel Wheeler, Art Since Mid-Century:1945 to the Present, the Vandome Press, NY, 1991
Whitney Museum of American Art: Selected Works from the Permanent Collection, 1994
小林秀雄『近代絵画』新潮社、昭和43年。